「人生経営のすすめ」渡辺淳様(前編)/健康経営のコンサルタント。経歴はやばかった!
こんにちは!人生経営の進めということで、今日は渡辺淳さん。トータルヘルスコーチングっていう、カテゴリーで、そうですね、健康経営というのを今の企業に推奨している男で、今通常の週に何回くらいですかね、1、2回以上は会ってってますよね。ほんと大好きな男であの一緒に、企画もしてて、いろんな活動してるんですけど、ぜひ今ですね、健康経営って言ってますけど、とんでもない経歴の持ち主なのでお楽しみにしてください。
じゃあまず健康経営について、お話をお願いします。健康系っていうのはあの今経済産業省が、国家政策の国家戦略のなかの一つとして起業さんに従業員さの健康を促進することによって、いろんな医療費の問題とか、労働力の問題、今働き方改革うっていうものがあってどれだけ長い期間、働けるのかっていうところが今日本の課題になってて、それには、やっぱり、前提として健康でいること。
そうですね。それは推奨しながら、もっというと従業員さんの健康を促進されてパフォーマンスが上っていけば、当然仕事の業績も人が売上を作るわけですから、そういう業績を上げていく経営手法としての取り組みを健康経営と呼ぶんです。
それを経産省が健康経営、有料法人認定っていう認定を出す検証制度、今、そうですね、3.4年ぐらい前から始まってます。
大企業、上場企業、大企業部門、中小事業部門とあるんですが、企業さんとしての利点は健康経営に取り組むことによって、従業員さんのまず、健康から業績を上げていく前提があるんですけど、それに取り組んでいるっていうブランディングですね、健康経営の有料法人認定てっていう認定のマーク使えることになるので、会社さんがその採用とか。
その認定を取るには淳ちゃんは、取るためのお手伝いができる?そうです。そのコンサルティングですね。
内容からまあその書類をとってくる、っていうことですね。絶対重要ですよね。これからはそうですよね。
国の政策として取り組むので、その流れは加速するだろうと思いますし、なるほど。今まで僕も事業者側なので、わかるんですけどやっぱり、従業員さんのプライベートとか、健康とかてっていうのは勝手にやってくれと、その代り、だけど、売り上げだけはしっかりだせよと、言われてみれば、乱暴ですよね。そうですよね。
人生を共にする家族だっていう、考え方の経営者さんもたくさんいますけど、その家族だと思うそのあり方は?どれだけ大事にしてくこれたのかというと、心が痛いですね。僕もそう思ってたんですね。
なんか、そのお手伝いを、企業が社員さんのその心のメンテナンスとかまあ家庭環境も含めて一緒にケアしていくって感じ?
そうです。認定事態で言えば、健康診断を受けるとか、コミュニケーションの促進とか食生活改善とか色々あるんですけど、まあもっと根本的な健康って考えると、体、心、人間環境、あと経済的な状況ですよね。
ある程度、満たされてて初めて健康っていう定義があるので、その全体的に、お手伝いをする感じなんですけど、まあ体の健康も例えば、花粉症とか、二日酔いとか、まあわかりやすい例で言うとそういう人って仕事にならないじゃないですか、そういう状態が労働生産性をどれだけロスしてるかって計算すると結構な金額に積み重なるんですね。
なので、まぁそういうものを改善していくアレルギーだとか、慢性疲労とか、まあ元気ハツラツであれば仕事ももっと捗るわけです、簡単にいえばいうのもありますし、まぁ今の時代やっぱりストレスで、心
を捨てちゃう方もいるし、もっと言うと、いろんな悩みて人間関係から来るんですね、そういう人間関係のコミュニケーションの学びもお手伝いをするし、まあそういった全体的な企業さんの従業員さんのコンディションによって、サポートの仕方を、意義がありますねこれから日本にとって、そうですねまぁそういう企業さんのお手伝いしたいなぁと、なるほど、ありがとうございます。
あの今健康経営というのをやられてるんですけど、ここにたどり着くまでにやっぱり様々な変化があって今日はぜひそれを聞いていただくと思ってますね。すごく勇気づけられっていうふうにあの思いました。
じゃあさっそくですけどそもそもどんなまあ少年だったのかじゃないけどが、まあそこからちょっといきましょうよ。はい、ありがとうございます。赤裸々に行きますので!あれだったら、ピー入れてもらえるんですか。入れます入れます。
少年とか子供の頃はあの結構スポーツマンでした。野球サッカーいろいろ色々とやってましたけど。野球もリトルリーグで、少年野球で世界大会、世界大会って言ってもたいした大会じゃないんですけど、市原市の少年野球の選抜で選ばれて世界大会という、日本でやったんですけど、すごいじゃないですか。
そこそこ運動という運動はそれなりにできるんですよ。何か秀ているかと言うと微妙ですけどね。肘壊しちゃって、やっぱりサッカーのほうがトレンドというかおしゃれだったんで、当時ね。まぁ面白かったていうのも当然あるんですけど。
だから小学生後半で野球とサッカー両方やりながら、中学生の頃はサッカー選んだんですね。やっぱそこそこいくんですよね。自分でいうのも変なんですけど、市原市なんで、市原選抜の代表になったりとかですね。それって多分私もそうですけど、よく淳ちゃんのことを最近知った人はみんなビックリしますよね。実は選抜選ばれるぐらいサッカーがうまかったとか、まあそこそこですけど。
まあでもそこそこなんでしょうけど、まあそれなりにそういう路線で生きていきたいなと漠然とです、思ってました、でまあ遊びも好きだったっていう要素ももちろんあるんですけど、結果として一度考え直して、やっぱりあらためてサッカーやりたいわと。
でまぁ高校に進学するんですけど、あのサッカーやるために入ったんですけど、ちょっとその校則、規則がうるさい高校で、髪が明るいとか、当時ピアスが流行っていて、ホントちょっとしたことでもうるさい高校で、そのやっぱ入学してその高校で1年生がABCDっていうチームがあって、けっこうすごい、そこそこ大きい規模ですよね。
Aチームは僕も市原選抜だったんで、市原選抜だった仲間たちも一年生のA軍に入ってるわけですね。
僕は髪が明るいだとか、なんだかんだ理由つけてBチームだったんです。落とされたわけですね。そうです。Bチームってどういうチームかっていうと、もう、高校は入ってちょっとサッカーやりますっていうか、そういう人達なわけですよ。
気のいい奴らで、楽しかったんですけど、ちょっとこう自分中で物足りないし、ちょっと反発心も生まれるんで、高校1年の夏に昇格試合っていうのをそこで、Aチームに昇格、もともと選抜で選ばれくらいですからね。
まあ元のチームに行けるってなったときに、髪が明るいからなんだとかっていうそういうのすごいつまんないなと思って、サッカーやめますって、辞めちゃうんですか?
勢いですけど、もうそこでそういう路線の道がなくなっちゃったんですけど、一度、サッカー止めてですね、まぁその流れでやっぱり高校もやめてっちゃう。1年の時に?はい。
高校じゃ、サッカーのために入ったんだけどまぁ1年の途中でやめちゃうと、そうですね。はい、高校自体やめてっちゃって、どうなるんですか?
ずっといわゆる、フラフラやる生活になっていくわけですね。どっちかって言ったら不良の世界に入っていくの?まあ僕はその遊び人部類だと思いますけどバイク乗ったりなんだりしたりという、まあ中ですね。
どっかでなんていうか、もう一回何かがしたい、よくわからないんですけど、大検、大学の検定、大学を受ける資格を取るための、高校を卒業したと同じレベルになる。その学校に行って大検を取って、結果として駒澤大学の夜学部入るんですけど。
まだやっぱりふざけたまんま中途半端に学生をやっていくっていう、ずっと中途半端な状況が続いてましたね。
なるほど。まぁだから何をしていいか分からなかったんでしょうね。ずっとそんな感じでしたね。どうなっちゃうんですか?
大学行っている時に18、19ぐらいですか、友達がやった働いてた、今みたいなオシャレじゃないんですけど、ホストクラブみたいな千葉の栄町にあって、今はないんですけど、そこで働くようになるんですね。水商売の道、水商売なりに業界でも一生懸命やる以上はやりたいなと思いながらも、いろんな遊びや誘惑がずっと続いてるわけで、そこでもやっぱりいろんな人がいるし、ここで、話していいかわかりませんけど、話しちゃいましょう。そうですね。はい。
ちょっとドラッグストアみたいなそんな方もいてですね。まあやっぱそういう僕の地元っていうのはやっぱり、覚せい剤とか薬とか、シンナーとか、ご法度みたいな、どっちかっていうと、硬派色の強い地域だったんですけど、その市原が?はい。市原の中ではなんかうちはそんな感じだったんですよ。
そういうのすごいアレルギーがあったんですけど、やってもいないのに否定するのってどうなんだって言われて、仕事の美学だったらわかるんですけど、そうだよねっていう感じから、しばらくそういう遊びも行き過ぎた時期もありました。どうだったんです?実際は?
何年もやっぱそういうのに溺れながら中途半端に仕事して、大学も中途半端に行ながら全部中途半端ですけど、仕事は仕事でできるんですか?まあ変だったんでしょう、きっとね。やれるのは全然やれるんですけど、でまぁホストクラブ事態は、1年から1年半くらいで止めるんですけど、まだその余計な遊びをしながら、大学はダラダラダラダラ行ってて、その時に地元の市原の先輩たちがやってるキャバクラでバイトするようになったんですね。
結局また水商売だったんですけど、まあそもそもやっぱりあのドラックに溺れながら、まあしょうもない感じで働いてたんですね。
ですけど大学行きながらなんですけど今度その千葉の繁華街の富士見町で市原のグループだったんですけど、店を出すから店長やらないかと、半分強制のようなとこもあったんですけど、大学行きながらやれる範囲であればってことで店長として、千葉市に店を構えるんですね。
なんていうんですか、これも全部昔の話だからあれですけど、時効ですからね。
そもそもその先輩達っていうのは、暴力団の先輩たちなんです。僕にとっては地元のなんかもう悪のカリスマみたいな、先輩なんですけど、まぁ当時は結構暴力団の中でも売り出し中のかなりなそういう人だったんです。なんかやっぱり魅力ありますよね。うん当時はありましたよね。
でまぁ僕自体はですね、暴力団に入ったとかそういう考え方はあまりなくて、また結果としてそういう中で働いてるんでいるだけなんですけど、やっぱり従業員とか後輩たちをやっぱ引き入れてですね、店長ですから、店に引き入れたり、やっぱり女の子をか預かったりしていく中で、どっかいろんな責任感がちょっとあったんだと思うんですけど、まあやっぱりちょっと組織の在り方が、言い方が変ですけど暴力団のお忍びみたいな、要素だったんですね。でまぁ僕は仮にいいとしても、従業員がやっぱり大事なこの20代に入ってこれから自分の道を考えていく中では、そういうあり方で騎乗舎弟みたいな働き方ってこの先その後輩たちも親がいてとかいろいろ考えて結婚しなきゃとかいろいろ考えてるとこういうあり方だとちょっとなと思っているときに、その先輩にですね、オーナーの先輩にもっとみんなが表に出れるような、はい。グループに組織にしていきたいって言った。はい、当社の小さいお店ででも結構売れてたんす。
でも先輩がそうだからってわけじゃないんですけど、やっぱりいい店って、昔まだ今のような法律がなくて、暴力団の人も元気な人が多くて、小さい店なんですけど、もう暴力団の人が遊びに来る店で、毎日トラブルでしたね。お酒飲んで暴れるで、まあやっぱ若かったし、知らなかったからあしらい方も甘かったし、サービス精神よりも、なんかそういう人たちがまあこれぐらい許せよみたいな。
許しちゃいけないんじゃないかとか、これが逆に反発してたんですね。多少なんかそういう接し方だったんですよね。そうなればなんか面白くない奴だなとかになって、まぁちょっといじめられたりするわけですよ。
結構暴力沙汰事件はよく起きる店で、まあそういうのもあってなんかこういうスタイルのままだと、疲れちゃうし、みんな疲弊しちゃうなと思って、もっとこう垢抜けたニュークラブみたいな、はい、お店を開いていって、それがグループ化してって、もっと言うと飲み屋業界でありながらまあ上場しながらみんながこうもっと表にこうちゃんと顔張れるように、グループにしたいなと思ってその先輩オーナーと話してたんですね。
でまぁ先輩とっては、結果お金が儲かれば良いだけの話で、良いとか悪いとじゃなくて、当然経営者としてもそう考えるべきですよ。その組織にすることよってなんかメリットがあるのかという話も色があったんですけど、とにかくやらせてほしいと言いってやらしてもらいました。
1個目のそういうニュークラブ、当時はまだ走りだですね、千葉では、そういうお店をつくってですね、あのこれからがんばるぞって時に、そのオーナーたちがですね、まあ暴力団の方々がですね、あるなんか事件があったらしくですね、大きな抗争事件になっちゃったんですね。
まぁ当然僕らも巻き込まれていきわけですよ。結構ね、詳細は忘れましたけどもう大きな組織とか、いろんな地元の組織からなにからといろんな人が、入り乱れる状況なっちゃって、僕らはそのやっぱ店を守っると、やっぱりその抗争に巻き込まれていた先輩たちが劣勢に回っちゃってですね、負ける。やられてっちゃう。そこの間にも挟まれるわけですね。
なのでもう何か結構な勢い巻き込まれて、僕もですね、その当時の事件の途中はしばらく富士見町から、昔はガラ為替とタイを為替とかいう話があって、要は隠れて、やることないわけですよ、お金はないし、でも従業員のことは心配だし、何もできないしね。
でもうこの先巻き込まれたままダメだろうなと思って、それはそれで別に構わなかったんですけど、なので、あのユーキャンで宅建の試験でも資格でも取ろうかなと、まあこの業界のだめなら不動産でもやってみようかなと。宅建の資格ちょっと頑張ってみたら取れちゃったんですよ。
天才?天才ではないです。器用貧乏ですね。そこそこ、弁護士と税理士は取れないけど、そのくらいだってちょっと頑張れば行けそうなところですね。宅建結構難しくないですか?でももう15年とか前ですよ。
取れたんですけど、あの結果として、端折っちゃうともういろんな目にはあったんですけどまあ僕と一緒にやった、仲間も本当にそれこそ拳銃を突きつけられて、僕も山にさらわれて脅されたりとかも散々ありましたし、あれですよ、家に入るときはですね、何周も回って誰もいないなとおもって、初めて家に入る。外を見回ってからとかとか、本当に尾行されたりとか、僕らも先輩をかばったりとか、店は守んなきゃとかで嘘をついたりとかなって、もう大分の大人の人たちからにしたらこのガキらはってなるわけです。
最終的にすね、もう僕らが嘘ついて嘘ついて嘘が重なっちゃってもう引き返せなくなっちゃって向こうもだったらもういいと金で済む話じゃない、金で話す金で済む話じゃないってあの時代のヤクザに言われると結構しびれるわけですよ。
解決方法がないんだ、やっぱりなんかも脅しの材料でそこの幹部の二番手三番手は1回ヒットしちゃおうかって、後々聞いた話です、結構あったんですね。
やっぱもう的にちょうどなる立場にいちゃったんで毎日周りを見渡しながら、生きてましたね。マンガの世界みたいでした。あの当時はですね。あの業界だったら、よくあったことなのかもしれないんですけど。
まあそれの最後の決着がですね、僕と一緒にやってた飲み屋のグループですね。その人間がまあいろんな罪を背負ってというか、まあ引いていくから、人柱っていうのと他の第三者の全然関係ない人にグループを買い取ってもらってみんなでお金で清算。僕がその買い取ってもらう新しいオーナーさんの専務として入れるっていう条件を現場まもってくれないと困るからね。
経営ができない、買ってもしょうがない、買っても人がいなかったらね。そういうことです。まぁ一応そういうのを全部僕は当時やってたので、そういう風に残ると、あとはもうなんていうんですか、まあ残った債務って言うんですか、夜の売り上げで返していくっていう状況でしたね。
ただ人柱になっていたその同級生の仲間ですねまあやっぱ巻き込まれて、やり方がまずかったにせよ、一生懸命、子供はまだ25.26の僕ら子供たちが、一生懸命やったけど、まあ無念ですよね。その辞めざるを得ないと言う。
なので必ずあの引き戻す。今力がないからそういうことができないけどグループに残ってどんどん俺は大きくするから、必ずまた呼び寄せるからもっと言ったら僕の上司とし呼び寄せるから一緒にやろうと言ってしばらく離れるんですけどね。
そこからじゃあ、キャバクラの専務として、現場の要は社長みたいなものになって、いくんんですか、発展していくんですか?そうですね。
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