「人生経営のすすめ」大泉勉様(前編)/接骨院の経営をしながら、10億の不動産投資

こんにちは!どうも。お邪魔します。本日も人生経営のすすめということで今日は、株式会社ビッグベンの大泉社長とですね。大泉勉ちゃん。大泉べんちゃん?つとむちゃん?本名はつとむです。よくベンちゃん、べんちゃんってね。べんちゃん!ひでちゃんでね。そうですね。はい。同い年です。

今日はですね。すごいんですよ。中小企業の経営者ってやっぱり経営を一生懸命頑張っていると思うんですけど、ベンちゃんは早くから不動産投資とか、資産管理とか人生経営の3番目ですね。資産管理という部分ですごい優れていて、その辺の話もしていきたいなぁって思っています。なんでも話します。ありがとうございます。

じゃぁですね。先ず今、どんな会社をやっているのか?現状ですね。まず整骨院をやっているので、株式会社ビッグベンという整骨院を3つ経営している会社をメインでやってます。場所が千葉で、都賀と稲毛と習志野の3店舗。

主に整骨院ってどんなお客様が多いのですか?

痛みを訴える方も多いですし、スポーツやられている方も多いですし、こうゆう風になりたいとか、柔軟性を付けたいだとか、パフォーマンスをつかみたいだとか、ゴルフだとか、ママさんバレーだとか、本当に老若男女、もう一言では言えないくらいの方々が来ています。

なんかあれですよね、整骨院なんですけど、もうちょっといろんなことができるんですよね。

プロ選手なんかも見てましたし、国体のトレイラーとか、まあスポーツの指導なんかもやっていたのでそっちの方は強いですね。

骨盤調整なんかがすごく喜ばれていますね。ほんとに、患者さんが求めるものは多種多様なので、なんでもできるような状態ではいます。

交通事故のチームなんかもってるんですよね。

弁護士、保険の代理店、社会保険労務士などと組んで、事故で悩まれている方のサポートに回るチームを作ってサポートチームをやっています。

なるほどありがとうございます。それが、株式会社ビッグベンといって3店舗の整骨院ともう1つありますよね。

会社ですか?有限会社ミルフィーユという会社もやってまして、もともとは整骨院に通えなくなったような、自分の足で通えなくなったような、お年寄りの面倒をみたいなと訪問介護と訪問タクシーの会社だったんですけれども、いろいろと法改正があり、運営面で厳しいんじゃないかというので5年やったんですけれどもそれをやめ、空っぽの会社になり、何をやろうかなと考えた時に、やっぱり私として幼少の頃に家を、後で話しますけど、家がなくなってしまったという経緯があったので、不動産には執着心があり、それで今は有限会社ベルフィーユで不動産賃貸を主にやっています。

不動産投資会社ですね。そうです。 なるほど。投資会社、投資がメイン?

どうなんだろう?不動産賃貸業という言い方でやっています。大家さんですね。なるほど。

大体、何棟?どのくらいやっているんですか?

棟数は大小ありますけど、今は4棟。うん。80コ。4棟の中に80部屋という感じ?そうですね。3LDKが大きいのがあったり、1room、1Kなどもあったり、いろいろですね。

大体、いくらぐらい?

不動産の購入総額みたいな、まあ先日、売却したものがあったりもするので、ただ10億弱ぐらいでやってますね。

10億も規模を回すっていうのが、最初から10億を使ったわけじゃないですもんね。

ありえないなと思ってますね。今考えれば?5千万でも死んじゃうんじゃないと思っています。それでいつの間にか10億になってしまって。そうですね。銀行さんに、借りてる身分なんで、ほとんど借金ですけれど、ロマンがありますよね。

ですよね。やっぱり、

なんだろ会社経営だけで入ってくるお金の他に、そういう不動産投資から入ってくるお金があって安心ですよね。

スタッフとか家族に心配かけないでいいっていうのは、一番ですね。自分の安心もあるけども、すぐに傾いたり、コケたりの状態だとだれもついてこないですもんね。

リスケジュールとかありますし、これから、べんちゃんのところの経営が、今後の中小企業の参考になっていくんじゃないかって、僕はひとつの例として思ってますね。面白いなって。

嬉しいですね。そういってくれると!

じゃあさっそく、始めていきたいと思うんですけど、そもそもなんで今、整骨院をやっているかとかですね、どういう子供の時だったのか?さっきもチラっと言いましたけど、すごい苦労されているのでぜひ紹介していただきたいなと思っています。

なんでも聞いてください。はい!まずじゃあどんな子供だったんですか?

どんな子供。まあ今もそうですけど、うるさいですよね。そうですよね。落ち着きがないですよね。はい。 喧嘩っぱやかったり、非常に自分としたら性格の悪い奴だなと思いますよね。

仲間いっぱいいますからね。

仲間は、やっぱり人が好きなんですよねっ。うーん。人たらしです僕。なるほど。人たらしです。

せかっちなんで、勉強が出来ない方ではなかったですね。宿題なんかも家でやりたくないから、授業中にやっちゃって、授業中に先生の話聞かないでやっちゃう。

あとはもうスポーツが大好きだったんで、秀ちゃん剣道でしょっ、私は柔道、小学校の1年のころから、父親が柔道家だったのでまずはそこでしごかれましたね。

父親が道場のコーチやっていたので、知らなかったんですね。行ったらコーチって呼ばれてて、先生って呼ばれてて、お父さんって言ったら、ボコボコにされました。

そうなんですか。ふざけんなって言って、お父さんって呼ぶなって。

後は野球やったり、卓球やったり、水泳やったり、陸上やったり、サッカーやったり、そういうのばっかりやっていてそんな小学生ですね。

でも選んだのか、ラグビーだったんですね。

ラグビーなんですよね。どれやっても一流にはなれないなって自分で思ってたんで、もうなんか、物足りないなぁと思ってた矢先に父親が、昔はチャンネルカチャカチャだったんですね。ハイ。こうじゃなくて、カチャカチャっと変えて、お前これどうだと!

見たと時に、近くにあった座布団かなぁくらいのやつ噛んじゃった覚えがある。気合が入っちゃって、激しさというか、やりたいと思って。

あれは感動っていうか、これだな俺はって決めました。小学校5年でしたね。高校ラグビーかなんかを花園の大会をテレビで見て、これだと思いましたね。

ちっちゃい頃は結構、そうですね、お父さんがそれこそ地元の名士じゃないけど、名士じゃないけど塗装業ですね。

職人さんも、50人ぐらいはずっといたんで、出入りがすごかったですね。 こう色々と柄が入っている人からいろんな人がいたんで、それを束ねてましたね。なんていうんだろう親分肌というか、間違えなく親分ですね。

事件があったんですよね。事件がありましたね。はい。いいですか。どうぞ。

中2の4月。それまでは中二の春までは野球部。結構裕福。

裕福というか普通よりはちょっと裕福でしょうね。そんなわがままじゃなかったんですけど、グローブはあれが欲しい、ミットも欲しい、バットも木星も金属もなんかね、そんな感じではありましたね。それがもう、なに不自由なく、良かったですね。最高でしたね。一番潤っていた時期じゃないですかね。

中二の春。野球部の練習中、先輩から「おい!ちょって大泉!職員室で先生が呼んでるぞ」と、またなんかやっちゃったかなぁ参ったなって行ったて、ガラガラ開けたら母親が泣いてたんですね。母親が泣いている。そんな悪いことしたかなぁと、おかしいな思いながら、「おお来たか。こっち来いっ」て言われて先生に、「お前はな明後日旅立つ」「えっ何言ってんの?」「いろいろ事情があってし引っ越さないといけなくなった。」「1丁目のだから3丁目のいとこの家に住むからいいよ。」「そういう問題じゃないから、

いいお父さんといいお母さんだなお前は。頑張って来い」と、言われ。

結局は父親が塗装業を営みながら保証人になったり、不渡り手当を大きい仕事をちょっとやってしまい、あのその影響で家も車も全部をもってかれたようで、それで隣町じゃなくて、隣の隣の市に 千葉市から八千代市というところに、近かったんですね。近いです。八千代市。

でも自転車で行ける距離でもないし全く知らないところに翌々日に引っ越しましたね。 昼逃げですね。夜逃げじゃなくて昼逃げ。

でも近いんですね。そんなイメージ的に言うと。でももうコミュニティが違うというか、畑が違うというか、父親はその保証人になってるんで、 はい。別のところで住んでるんです。

逃げるわけにいかないって言う 責任感は、あったんだなと今は思います。

いきなりじゃあ生活が変わったわけじゃないですか、どんな生活になったんですか?

結構大きい家からLDKとかでいうとどうなんだろう。8 LDKぐらいの家から借家、それも平屋。それも3DKぐらいの、もう本当にちっちゃい昔よくあった同じ、平屋がこう並んでいる借家。並んでる、そういうちょっとなんて言ったらいのかな、長屋ではないけどもポツンポツンと、ほんとちっちゃい1/3どころか1/5ぐらいの広さになっちゃいましたね。ちょっともう、みすぼらしい感じで。環境も全部変わって友だちにも会えないで、連絡しちゃダメ。

どんな気持ちだったんですか?どんな気持ちというか、悔しいやら悲しいやら、学校行っても誰も知らない。学ランが長いだの、ズボンが太いだの呼び出されるは、ちょっかい出されるは、もうほんとね、このままなんか 不良の道というか人を傷付けて刺しちゃったりするんじゃないかなと思いましたよね。

うん。何も考えられかったです未来のことは。まあ結構荒れてましたからね、うちらの世代は荒れてました。

まあいろいろいざこざがありながら、考えて見たら2週間後には友達になってましたね。結局はね。

ボッコボコにやったりやられてたりしながら、なんだろう。濃い2週間でしたね。

はい。それでラグビーの世界に入っていくんですね。高校受験で行きたい学校全国大会に出たかったんで、行かしていただき、そこでは入学すぐ関東大会、花園にある全国大会出させてもらって、大学でやりたいという、やれる自信がめばえ、大学受験もラグビーでしか選ばなかったです。

はい。 学部は何でもいいと、ラグビーの強いところ行きたいと、とある狙っている学校があったので、失敗しましたけどね。 う〜ん。秀ちゃんと違って。

それで、結局私は大阪でラグビーをやることになり、なんか、早稲田目指してたって。2浪しても受からない。

なんか早稲田というより明治っぽいですけどね。早稲田でしょ!明治は!ラグビーのイメージで、前へ、前へっていうのが嫌いで、 早稲田はどっちかっていうとパスですものね。もう横!僕見に行きましたよ。こないだ?当時学生の時に早稲田が勝ってましたけど、明治が勝った時もあったしね、どちらかっていうと早稲田、そうなんですね。逃げ切るとか。もうトリッキーなプレーとか、そうなんです、そっちなんです。早稲田をあきらめて、大阪の大阪商業大学っていうところでラグビーを4年間やりました。

ラグビー生活をずうっと高校大学とされて、就職ですか?就職です。どこに就職したの?

本当はラグビーで就職したかったんですよ。ただ、呼ばれたところが自分の行きたいところじゃっなかったんで、これはもうラグビーも親のためにもやめようと、母親ももう、昼、夜働いて、苦労かけたんで、仕送りもしてもらってなので、ラグビーなしで、趣味でラグビーやるぐらいにして、それで日本空港ビルデングという、羽田空港のあるバードの大家というか。

ターミナルの会社に。普通に出社ですね。そうですね。はい。どうだったんですか?

いろんな部署回らしていただいて面白みはあったんですけども、父親が経営者だったり、母親も自分でお店を生活のためにやったりとか、そういうのを見てましたので。どちらかというと経営者家族ですよね。商売の家ですものね。
サラリーマンではないですね。ですよね。それが良かったと思うんですけれども、尊敬できる上司もいましたけど、やっぱり、5年後こうなっちゃうのかな、10年後こうなっちゃうのかな、見えちゃうわけですよね。見えてくる。

社長、役員っていうのは当時、やっぱり天下りみたいな方が多かったので、半官半民みたいな、あのエアリーもそうだし、多いじゃないですかそうゆうコネクションとか、なので自分が何かやりたいと、ラグビーの情熱が忘れられないと、高校に教えに行ったりとかはずっとしてたんですけども、それだけじゃ面白くないということで、プロのラグビーコーチになろうと思って腹筋はずっとしてたんです。

27の時に会社を辞めることにはなったんですけれども、それは、海外に行ってラグビーのコーチになることを思ったのが、きかっけで。

すごいですね。なってないですけどね。でも、ちゃんと貯金してね。ボーナスは絶対使わなかったです。

あとはもう全部使ってました。使いそうですよね、めちゃくちゃ使ってました。

27になっていざラグビーのコーチになるぞ!ってなったときに、何があったんですか?

父、祖母、ともに癌になってて、はい。母親には泣かれて、なんで会社やめるの? いい会社入ったのに!なんで海外に行くなんていうのと、海外にコーチの勉強で、オーストラリアに行きたかったんで。

なるほど。ここで行ったらまずいなと、父親には「行け!行っていいぞっ」て言われたけれども、余計にそれが胸に刺さったと。お父さんは行って来いと。もう俺は死ぬぞと。もう大丈夫だと、いう風に言ってくれたのが余計辛かったですね。

じゃ、残るんですね。残り、癌を患ってる父に相談し、じゃあラグビーに携われるトレーナーとかメンテナンスができるそういった仕事はどうだって言う、また提案をされ、父親の影響が大きいんですよね、ラグビー始めるのも。

お父さんと仲いいんですね。まあめちゃくちゃ中いいですね。ですよね。すごい尊敬してたので、運動もすごいできたし、鍼灸士とかリハビリやるんだったら何があるかなっていろいろ調べたり、一緒に相談乗ってもらったりして、柔道整復師という整骨院を将来開業できる国家資格を取ろうと思い、27で学校入りました。なるほど、柔道整復師を取るための学校ですね。そうですね。はい。

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